世界で一番推しが好き!

たのしいおたくのせいかつ

無題


まずは何よりもご冥福をお祈りいたします。ゆっくり休んで下さい。

 

 

 

普通に起きて、普通にご飯食べて、普通に仕事した。お腹は空くし、仕事が忙しいと疲れるし、ご飯は美味いし、なんか私は生きてるんだな、私は生きてしまっているんだなと思った。

 

「そこそこ頑張って現場に行くオタク」だった。もう10年以上も前なので、何を語る権利もクソもないと思ってるし、思い出語りみたいなダセェことはしたくないのでしないけど。それでも今でも好ましく思っているし、幸せに健康に楽しく生きていてほしいと思っている1人だったから人並みに驚いたのだけど、なんか全然涙が出ないんだよね。朝からずっとぼんやりと、亡くなってしまったんだなぁ、その単語ばかり繰り返して、そうしたらいつかじわじわと実感してくるのかと思ったけど、1週間が経った今でもそういう瞬間は全く訪れなくて、未だに現実の出来事だって理解はしてるけど、実感がさっぱりない。

下りてしまってから私にとっては「世界のどこかで生きている人」であったから、今もそうであるような気がしてならなくて、あの数行のブログだけで沸き上がるほどの実感や悲しみも持てない。昨日まで普通に今日どこで何をしているのかなんて気にも留めていなかったのに、突然今日からいませんよって言われても何をどうもってその不在を実感したらいいのか分からない。彼を懸命に想っていた人たちは彼のことを毎日のように考えて想っていたと思うから、きっとその不在は何よりも胸を痛めると思う。だけど私はその不在を実感できるほど今の彼のことを知らない。たまに観に行った舞台にいる、そんな人に対して、何を持って不在を実感していいのかまだ全然わからない。

若手俳優たちのツイート読んでも、他人の悲しみを受け取って泣くのは自分の悲しみではないような気がしてしまって(そうなってしまう人を否定してるわけではなく)、じゃあ私の悲しみってどこにあるんだろう、本当にかなしいのか、何をもってかなしいと言うのか、そのかなしいはどこから来るのか、全く分からない。何度ブログを読んでも全然わからない。

 

 

今日かなしくてもかなしくなくても、それでも今日から彼はいないし、これから先彼が演じるはずだった役は誰かが演じて、また今日どこで何をしているのか、生きているのかそうじゃないのか、気にも留めないような日に少しずつ戻っていて、私は生きているので今日も明日もいろんなことをしなくちゃいけないし、考えないといけないし、普通に楽しいことがあれば笑うし、ご飯は美味しいし、新しい出来事に気持ちを費やすし、でも全部忘れるのはちょっと嫌だなと思う。

先に書いたようにまぁいろいろ言うのもダサいと思うんだけど、やっぱり忘れたくない気持ちは本当だから、なんか残しておきたいなと思った。ので書いた。1年後読み返したとき、少しは実感できてるといいな。

 

 

 

改めて、本当におつかれさまでした。向こうでゆっくりしてくださいね。

そして、今の彼を一生懸命応援していた人たちが、何に傷つくことなくゆっくり過ごせるようお祈りいたします。