世界で一番推しが好き!

たのしいおたくのせいかつ

認知の話

前回の記事にたくさんスターを付けて頂いてありがとうございます!壁打ちのつもりで書いたものとはいえとてもうれしいものですね。

 

今回は「認知」というものについて、私が思ったこと経験したことを書こうかなと思います。
欲しい欲しくないは人にもよると思いますが、認知ってすごいことだと思うんですよね。舞台の上でキラキラしてる推しが自分のことを知っていてくれている。彼の人生と記憶の中に自分という人間が僅かながらに存在する。これって普通に考えたら本当にすごいことだと思います。


今の推しのひとつ前の推しさんの時、私は認知が欲しくて欲しくてしょうがなかったファンでした。
まだ学生だったけど現場は頑張って通ったし、接触もループしました。でも、彼はファンの顔を全く覚えない、何なら握手会でループしても前の周で話したことすら忘れてるレベルの人だったので、どれだけ必死で頑張っても、自分から名乗ってようやく「あ、あのお手紙の人ですね」と思い出してもらえるレベルが限界でした。
でも私はそれじゃ満足できなかった。周りの別担の友達はみんな推しに認知を貰っていて、ステージ上からレスを貰ったり、接触の時には向こうから○○ちゃん来てくれてありがとうって言ってもらったりしていた。私は推しさんにそういう認知を貰いたかった。だけど、どれだけ頑張ってもそこにたどり着くことができなくて、すっかり疲れ切ってしまいました。
認知を貰うための相手が悪かったとも言えるし、私自身の努力も足りなかった。でもいつの間にか、推しさんのことが好きなのは間違いないのに、応援したいとかもっと舞台を観たいとかそういう気持ちじゃなくて、認知が欲しい、それだけの為に推し事をしている自分がそこにいました。

その頃に出会ったのが今の推しくんです。
推しくんはデビューしたてでファンがほとんどいませんでした。最初は、前の推しさんを追うことに疲れていたけどまだ認知はほしい気持ちは諦めきれない自分の、「この子なら認知をくれるかもしれない」という下心満載で推し始めました。もう誰でもよかった時点で病気。
結果、彼はあっさり認知をくれました。Twitterでこまめにリプを送り、初めて顔を合せたときに名前を名乗って、2回目ではこっちが名乗る前に顔を覚えていてくれました。正直拍子抜け。え?こんなにあっさり?推しさんは何年かけても私の顔を覚えてくれなかったのに?出会って半年もたたないうちに当初の目的を達成してしまいました。

最初は認知が欲しくて推し始めたけど、そこからお芝居をする姿や人柄に惹かれて何だかんだと数年経ちました。
推しくんは舞台上で客席にいる私を見つけると、ファンサはしないけどいるなって顔をしてくれるし、あの時あの席に座ってたねって言ってくれることもあります。会いに行けばいつもありがとうって言ってくれるし、俺のこと分かってくれてると言ったり、私のこと分かってるようなことを言います。私がこの数年でどんなふうに推しくんを好きで、どんな風に推してきて何をどれだけしてきたか、推しくんは全部知っているし、分かってくれている。
あの時欲しかった認知を今私は貰ってる。元推しさんでは欲しくても欲しくてもどうしても手に入らず諦めてしまったところに今私はいます。
認知を貰えてなかったら今の推しくんのことをこれだけ好きになって推せていたかというと、多分推せてなかったと思います。そもそも認知が欲しくて推し始めたわけだし。会いに行った時「私」が来たことを推しくんが喜んでくれるのが嬉しくてもっとたくさん通おうと思ったし、手紙を書けば「私」が書いたことに対して推しくんが反応をくれるからもっとたくさん書こうと思った。「私」がしてることを推しくんが全部知っていてくれている安心感と高揚感が私を突き動かしてました。そうして今に至ります。

だけど「認知があること」に苦しんだ時期もありました。
とある舞台のアフターイベントで推しくんのお誕生日祝いが企画されました。事前に告知があったので、当然推しくんのファンはみんなその公演に入ります。私はその日は行きたかったけどどうしても仕事を休むことができなくて、いつも一緒に現場に入ってる他担の友達(推しくんの認知もある)にチケットを託しました。
イベントが終わった後、友達が「私のことすごい見てたけどアンタのこと探してたんじゃない?」って言われました。
推しくんが本当に私を探してたかどうかは分かりません。だけど、私が今までやってきたことを推しくんに知ってもらってるということは、「私がやらなかったこと」も推しくんは分かってしまうんだということをその時理解しました。途端に「認知」というものがめちゃくちゃ重く感じて、今まで自分が楽しいからと思ってやってきた推し事に猛烈にプレッシャーを感じるようになってしまいました。自分がやりたいことやれることをやるのが自分のモットーのはずなのに、「知られている」という意識に囚われて「見られているならちゃんとやらなくちゃ」という気持ちが大きくなってしまったんですね。
それは、元推しさんを推していた時に似てました。少しでも現場が空けば、推しさんの記憶が薄れてしまう。毎回プレゼントを持って行って前方席に入って、手紙も小まめに書いて、少しでも覚えてもらうために絶対に手を抜けない、抜いちゃいけないと思って躍起になっていた時と似てた気がします。完全に「やらなくてはいけない」という意識しかなくて、推しくんが好きな気持ちや、自分が楽しいとか嬉しいとか、そういうことを忘れて推していました。
たまに、あ~~~~~~~~~~めんどくせえ!!!!!!いっそ推しくんが記憶をなくしてくれれば、私は自由に推しくんのことを推せるのに!!!行きたい時に行って、行きたくない時は行かなくて済むのに!!ってキレたこともあります。でも当然ながら推しくんの記憶は消せないので。

認知があっても結局同じような意識に囚われてしまったのですが、その認知の苦しみを解消してくれたのもまた認知でした。
推しくんはそもそも良い意味でファンの行動を逐一気にするような人ではなくて、毎回現場に来るファンもたまに来るファンも誰も贔屓することなく「自分のファン」として扱う平等な人です。それが嫌だという人もいるけど、逆にそれが私みたいな人間には合ってたんだと思います。私がいつ行こうと何をしようとしなくても、推しくんの態度も対応もいつでも変わらなくて、やらなかったことより、やってきたことをちゃんと見てくれて、本当に有難かった。私が認知に囚われてグダグダしていた時も、そんなこと気にしなくていいと何回も言ってくれて、おかげで今は肩の力を抜いて、自分がやりたいことやれることをやりたいだけ、自分の為の推し事をたのしく出来るようになりました。本当に良い推しに出会えたなぁと思います。

週末も推しくんに会いに行きますが、プレゼントは用意してません。その分で推しくんのブロマイドを買いたいから。手紙は少し前にたくさん書いたのでいつもよりちょっと短めです。席も後方だから私に気づかないと思います。だけど、プレボから「私」からの手紙を見つけてくれるんだろうなと思えるから、いつもより短い手紙でも「私」が言いたかったことを理解してくれると思えるから、きっと私はまた来週も来月も「自分がやりたいこと」として推しくんを応援できるのだと思います。

1度認知を貰うと、推しの記憶を消すことは出来ないし、なんでこんなに気にしなくちゃならないんだ?!?めんどくせぇ!自由にさせろ!ってなることもあるし、でも楽しいことうれしいことのほうが断然多い。幸せか不幸せかと言われたら断然幸せ一択です。
「私」が書いた手紙を「私」の気持ちとして受け止めてくれてる。「私」が今までどういう風に推しくんをすきで、何をしてきたか、を推しくんは全部分かってくれてる。たくさんのファン、の中に「私」という個がいることを認識してくれてる。本当に有難いことだな幸せだなっていつも思うけど、だけど、同時にそれを全部分かられてるってちょっと怖くないですか?私は未だにふとした時に怖くなるし、やっぱり煩わしさを感じることもあります。
どっちが良いのかは本当にその人によるので、どっちがいいよとは一概に言いませんが、昔の私からしたら夢みたいな状況にだって、幸せなことだけじゃないのだなぁということを、認知をもらって初めて知りました。昔の私からすればなんつー贅沢なことで悩んでるんだって感じですけどね!

 

でもやっぱり未だにごくごくたまに、推しの記憶消してぇ~~!!って思います。